労災裁決例から読む「叱責」と「パワハラ」の境界線
~上司の指導はどこから心理的負荷「強」と評価されるのか~
■はじめに
前回のコラムでは、精神障害に関する裁決例を取り上げ、発病時期の認定によって結論が大きく分かれる事案を確認しました。今回は、そうした発病時期や長時間労働といった外的要因の整理から一歩踏み込み、個々の出来事そのものがどのように評価されているのか、とりわけ実務上問題となりやすい「上司の叱責」に焦点を当てます。近年、パワハラに対する社会の目は非常に厳しくなっており、企業においてもハラスメント対策は重要な経営課題となっています。こうした状況の中で、多くの職場で悩ましい問題となるのが、「上司の叱責は、どこまでが指導で、どこからがパワハラなのか」という点ではないでしょうか。強く指導しなければ仕事は覚えない。しかし、行き過ぎればパワハラと言われるかもしれない。この境界線は感覚で語られがちですが、裁決例を丁寧に読み解いていくと、労災認定の場面では、出来事の内容や態様そのものに着目した評価の積み重ねによって結論が導かれていることが見えてきます。本稿では、パワハラと評価されそうに見えても心理的負荷が「中」にとどまった裁決例と叱責が「ひどい嫌がらせ等」と評価され心理的負荷「強」とされた裁決例を比較しながら、叱責という出来事がどのような場合に評価を一段引き上げるのかを整理します。
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◆本稿でいう「パワハラ認定」の意味 ここで一点だけ、用語について補足しておきます。本稿で「パワハラと認められた」「認められなかった」と表現しているのは、パワハラ防止法上の法的判断を直接示すものではありません。精神障害の労災認定では、厚生労働省の「心理的負荷による精神障害の認定基準」に基づき、業務上の出来事が与えた心理的負荷を「 弱 中 強 」の三段階で評価します。そして原則として、心理的負荷の総合評価が「強」と認められた場合に、業務による強い心理的負荷があったと判断され、労災認定につながりやすくなります。逆に、叱責やトラブルがあったとしても評価が「中」にとどまる場合、それだけでは業務起因性を肯定する決め手にはなりにくい構造になっています。本稿では、この「中」と「強」を分ける叱責の程度という観点から裁決例を整理しています。 |
1.パワハラと認められなかった裁決例
(1)研修中の厳しい発言でも「中」にとどまったケース(平成30年労第357号)
この事案では、研修指導者が「あなたは幼稚園児並みだ」、「能力はゼロなんですよ」といった強い言葉を用いていたことが録音から確認されていました。一見するとパワハラに近い印象を受けますが、審査会は次の点を重視しています。まず録音内容を確認すると、問題となった発言は存在するものの、発言の大部分は業務上の問題点の指摘や指導でした。また、「口調は怒鳴るものではなく、諭すようなものだった」、「恫喝や威圧的態度までは認められない」、「同様の発言が執拗に繰り返されていたことも確認できない」といった事情も考慮されました。その結果、審査会はこの出来事を「(ひどい)嫌がらせ等」に該当する可能性はあるとしながらも、心理的負荷の総合評価は 「中」 にとどまると判断しました。つまり、強い言葉が含まれていても、それだけで心理的負荷「強」になるわけではないということです。
(2)暴言・暴行の主張があっても「強」に届かなかったケース(平成30年労第317号)
この事案では、社長からの「暴言、暴行、金銭トラブル」などが主張されました。しかし審査会は、「出来事の具体的な態様の裏付けが十分ではない」、「被害の程度が客観的に確認できない」、「叱責の背景に業務上の問題があった可能性も否定できない」といった事情を踏まえ、心理的負荷の総合評価は 「中」 と判断しました。労災認定では、「暴言があった」という主張だけでは足りず、その態様や客観証拠がどこまで確認できるかが重要になります。
(3)朝礼での叱責も「指導の範囲」とされたケース(平成29年労第98号)
この事案では、「朝礼で社員の前で失敗談を発表させられる」、「上司から強い口調で叱責される」といった事情が主張されました。しかし審査会は、「失敗談の発表は請求人だけに課されたものではない」、「業務上のミスに対する注意という側面がある」、「客観的にいじめと断定できる証拠は乏しい」、として、業務指導の範囲内と評価しました。その結果、心理的負荷の総合評価は 「弱」 とされています。
2.パワハラと評価された裁決例
怒号・人格否定・執拗な叱責が重なったケース(平成30年労第468号)
一方、叱責が「強」と評価された裁決例では、叱責の態様が明確に異なっています。この事案では、上司が「お前ふざけんじゃねえぞ」、「基本が分かるのか」などの怒号を頻繁に浴びせていました。さらに、「わからないことを聞くと怒鳴る」、「聞かずに進めても怒鳴る」、「長時間の説教」、「周囲に響く大声での叱責」などが繰り返されていました。同僚は「もう勘弁してあげたらいいのにと思うほど長い説教だった」と証言しています。さらに決定的だったのは、叱責が「業務内容の指摘を超えて人格攻撃に及んでいた」という点です。また怒号は「班全員が気づくほどの大声」、「上司が止めに入るほどの状況」であったと認定されています。審査会はこれらを踏まえ、「人格否定を伴う言動」、「執拗な叱責」、「周囲が恐怖を感じる態様」を理由に、この出来事を「(ひどい)嫌がらせ、いじめ又は暴行」に該当すし、心理的負荷の総合評価は 「強」 と判断され、労災認定に至っています。
3.比較から見える境界線
ここまでの裁決例を比較すると、叱責が「指導」にとどまるか「パワハラ」に近づくかは、次の点で分かれているように見えます。
◆指導の範囲と評価されやすい叱責◆
・業務内容の指摘が中心
・口調が淡々としている
・怒号や威圧がない
・継続性が弱い
・客観証拠が乏しい
◆パワハラと評価されやすい叱責◆
・人格否定や侮辱が含まれる
・怒号や恫喝など威圧的態様
・繰り返し行われる執拗性
・周囲が恐怖を感じるレベル
・第三者証言など客観証拠がある
ここから見えてくるのは、叱責が問題になるかどうかは、単に「強い言葉を使ったかどうか」ではないということです。
おわりに
裁決例を丁寧に見ていくと、叱責が「指導」にとどまるのか、それとも「パワハラ」と評価されるのかを分ける要素も、ある程度見えてきます。それは必ずしも、叱責の内容が正しいかどうかという問題ではありません。裁決例で心理的負荷が「強」と評価されるケースを見ると、「怒号や恫喝など、恐怖を与える態様があること」、「叱責が執拗に繰り返されていること」、「その状況が第三者にも恐怖や萎縮として認識されるものであること」といった事情が重なっていることが多いように思われます。言い換えると、叱責が「指導」にとどまるか「パワハラ」と評価されるかの境界線は、何を言ったかというよりも、どのような態様で、どれほど続き、職場全体にどのような影響を与えていたのかという点によって判断されているといえるでしょう。冒頭で触れた「上司の叱責は、どこまでが指導で、どこからがパワハラなのか」という問いに対しては、まさにこの点こそが重要な判断の分かれ目になります。
執筆者 岩澤
岩澤 健 特定社会保険労務士
第1事業部 グループリーダー
社労士とは全く関係のない職を転々としておりましたが、最後に務めた会社が大野事務所の顧問先というご縁で入所することになりました。それからは、何もわからないまま全力で目の前の仕事に励んできました。
入所してから十数年、現在では「無理せず、楽しく、元気よく」をモットーに日々の業務と向き合っています。
数年前から、子供と一緒に始めた空手にドはまりしており、50歳までに黒帯になるという野望があります。
押忍!!
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