社会保険に遡及加入した場合の遡及分の社会保険料は当然に給与から控除できるのか?
こんにちは、大野事務所の土岐です。
今回も日々のご相談事例の中から、社会保険(健康保険、厚生年金保険)の遡及加入が生じた際の遡及分の社会保険料に関する給与からの控除について採り上げます。
1.給与からの社会保険料の控除に関する原則
まずは給与(賃金)からの控除に関する基本的なルールを確認します。
労働基準法第24条では、いわゆる「賃金全額払いの原則」を定めており、使用者は賃金の全額を労働者に支払わなければならないとされています。ただし、次の2つの場合には例外として給与からの控除が認められています。なお、(1)および(2)のいずれの場合においても、就業規則上に控除についての根拠規定を設け、これを周知しておくことも必要です。
(1)法令に別段の定めがある場合
所得税、住民税、健康保険料、介護保険料、、子ども・子育て支援金(2026年4月分~)、厚生年金保険料および雇用保険料が該当します。これらは個別の同意や労使協定がなくとも、法令の定めに基づき控除することができます。
(2)賃金控除に関する労使協定(賃金控除協定)を締結している場合
事業場の過半数労働組合(ない場合は過半数代表者)と書面で締結した協定に定められた項目について、控除が可能となります。
2.社会保険料の控除の原則と遡及分の控除の問題
上記(1)のとおり法令に別段の定めがある場合には当然に控除することができるわけですが、健康保険法第167条第1項および厚生年金保険法第84条第1項において、事業主は、被保険者の負担すべき前月の標準報酬月額に係る保険料を控除することができると定められている通り、控除できるのは、当月の給与からは前月分の保険料ということです。なお、退職する場合においては、前月および当月の標準報酬月額に係る保険料を控除することができる旨も定められています。
ここでタイトルの問題となるのが、社会保険の遡及加入が生じた場合です。例えば社会保険の資格取得要件を満たしていたにもかかわらず、加入手続きが行われていなかったことが発覚した場合、本来の資格取得日に遡って資格取得することがあります。この際、遡及して加入した月から現在までの社会保険料が一度に発生することになります。
ただ、この「前々月分以前」の保険料については、健康保険法・厚生年金保険法の条文上、給与からの控除を直接認める規定がありません。この点、古い通達(昭和2年2月5日保発112号)では、「報酬より控除することができるのは前月分の保険料に限るものであり、特殊事情により控除できない場合は別途求償すべきものである」と示しています。
では、この「前々月分以前」の保険料を給与から控除するためには、どのような対応が考えられるのでしょうか。
3.賃金控除協定で定めることができる項目の考え方
上記(2)の賃金控除協定による場合、当該協定に定めることのできる項目については、通達(昭和27年9月20日基発675号、平成11年3月31日基発168号)において、「事理明白なものについてのみ、…(略)…労使の協定によって賃金から控除することを認める趣旨であること」と示されています。この「事理明白なもの」の具体例については、同通達に購買代金、社宅、寮その他の福利、厚生施設の費用、社内預金、組合費等が挙げられています。これらはいずれも、控除の目的・根拠・金額の算定方法が客観的かつ明確で、労働者にとっても理解しやすいものといえます。
では、「前々月分以前の社会保険料」は、この「事理明白なもの」に該当するといえるのでしょうか。
4.複数の労基署への見解
この点について、いくつかの労基署(A、B、Cとします)に確認したところ、次のとおり見解が分かれました。
AおよびB労基署からは、賃金控除協定に「未徴収の社会保険料」といった項目で労使協定を締結することにより、個別同意なく当該協定に基づいて控除することが可能であろうとの見解を受けました。特にA労基署からは、「本来労働者が負担すべきものといえる点からも、事理明白なものに該当すると考える」との明確なコメントがありましたが、B労基署は見解を述べる際に、「担当官によって解釈は分かれますが」という前置きがありましたので、労基署調査の際に、担当官によっては事理明白なものとはいえないとの解釈となる可能性がある点は留意が必要です。
一方、C労基署は一旦労基署内で検討していただいた後、次の理由から、「賃金控除協定に定めるものではない」との見解が示されました。
「賃金控除協定により控除可能となるのは福利厚生的な「事理明白なもの」に限られ、社会保険料は法令に控除根拠があるため協定の対象外である。また、法令上控除できるのは前月分のみであって前々月分以前に関する規定はなく、前掲の古い通達によれば「別途求償すべきもの」とされていることからも、遡及分の社会保険料は本人からの振込等による方法で徴収すべきとの解釈になる。」
C労基署の見解は前掲の古い通達踏まえますと理屈上は理解できなくはないのですが、実務的な観点から考えますと、A・B労基署の見解が妥当と筆者は考えます。社会保険料は本来被保険者本人が負担すべきものであり、遡及加入により複数月分が一度に発生したとしても、その性格に変わりはないことから、「事理明白なもの」として賃金控除協定に定めることは通達の趣旨に照らしても合理的といえるのではないでしょうか。
しかしながら、相当期間遡及して加入するなどにより社会保険料が高額となる場合、給与から一方的に控除するとなりますと手取りが少額になってしまったり、全くなくなってしまったり、あるいは差引支給額がマイナスとなってしまったりすることが想定されます。このような場合には、労働者と協議のうえ、どのような形で社会保険料を精算するのか話し合い、合意により控除額を決定のうえ着地することになると思います。
おわりに
いかがでしたでしょうか。
社会保険の遡及加入が必要となる場面は予期せず発生することがありますが、その際、複数月分の保険料が一度に生じるケースでは、本コラムで採り上げたような問題が生じます。今回のテーマに限らず労働法令においては解釈上の疑義が生じる場面も少なくありませんので、法令や通達の整理と、現実的な落としどころを考慮しながらご対応いただければと思います。
本日も最後までお読みいただきありがとうございました。
執筆者:土岐
土岐 紀文 特定社会保険労務士
第3事業部 部長
23歳のときに地元千葉の社労士事務所にて社労士業務の基礎を学び、その後大野事務所に入所しまして10数年になります。
現在はアドバイザリー業務を軸に、手続きおよび給与計算業務にも従事しています。お客様のご相談には法令等の解釈を踏まえたうえで、お客様それぞれに合った適切な運用ができるようなアドバイスを常に心がけております。
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