新年のご挨拶とともに、精神障害と業務上疾病をめぐる裁決
~発病時期」の評価が結論を分けた自殺事案~
■はじめに(新年のご挨拶)
少し遅くなりましたが、新年あけましておめでとうございます。本年も、裁決例を題材に、実務の現場で役立つ視点をお届けしてまいります。前回のコラムでは、脳・心臓疾患を取り上げ、時間外労働時間数という「数値」だけではなく、勤務の実態や負荷の質を含めて「業務上疾病」が判断されていることを確認しました。今回からは、業務上疾病の中でも、より判断が難しく、企業実務への影響も大きい 「心理的負荷による精神障害」 を取り上げます。
■今回の裁決の見どころ
~結論を分けたのは「発病時期」~
精神障害の労災と聞くと、「長時間労働があったか」、「叱責やハラスメントがあったか」といった出来事そのものに目が向きがちです。しかし、実務上、結論を大きく左右するのは、しばしば別の点にあります。それが 「精神障害がいつ発病したと評価されるか(発病時期)」 です。発病時期をどこに置くかによって、長時間労働や叱責・始末書提出といった出来事が、「発病前の原因として評価されるのか」、「発病後の事情として評価対象から外れてしまうのか」が決まります。今回紹介する裁決(令和元年労第225号)は、発病時期の評価の違いが、監督署長・審査官と審査会で結論を分けた典型例といえます。
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【参考】:精神障害の労災認定の判断基準 心理的負荷による精神障害については、厚生労働省が定めた認定基準に基づき、以下の内容について検討が行われます。
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■事案の概要
被災者は、平成27年9月、B会社に講師として採用され、C所在の事業場で授業等の業務に従事していました。被災者は、○年○月○日、鉄道の線路に飛び込み死亡しました。死体検案書には、死因の種類として「自殺」と記載されています。遺族(請求人)は、被災者が死亡に至った背景には、上司による誓約書や始末書の提出を求められたこと、厳しい叱責、恒常的な長時間労働といった業務上の出来事があったと主張し、労災保険法に基づく遺族補償給付および葬祭料を請求しました。しかし、労働基準監督署長は「業務起因性なし」として不支給処分を行い、その後の審査請求においても、労働者災害補償保険審査官は同様に棄却しました。これに対し、遺族は再審査請求を行い、最終的に労働保険審査会が判断を下したのが、本件裁決です。
■監督署長・審査官の判断構造
監督署長および審査官は、専門部会の意見を踏まえ、被災者は 平成28年7月下旬に「うつ病エピソード(F32)」を発病していたと認定しました。この発病時期を前提とすると、問題となっている恒常的長時間労働や始末書提出は、いずれも「発病後の出来事」となります。精神障害の認定基準では、原則として発病後の出来事は、発病原因の評価対象になりにくいため、監督署長らは、発病前に業務による強い心理的負荷は認められないとして、業務起因性を否定しました。これは、出来事を軽視したというよりも、因果関係の起点を早い時期に置いた結果、重要な業務上の出来事が評価の射程から外れたという判断構造といえます。
■審査会の判断①(発病時期の再評価)
本件において、審査会が最初に着手したのは、被災者が「いつ精神障害を発病したと評価できるのか」という点でした。審査会は、平成28年7月下旬以降における被災者の言動や生活状況が、精神障害の診断基準を満たしていたといえるかという観点から、発病時期の妥当性を改めて検討しました。
1.業務遂行能力の状況
まず審査会は、平成28年7月下旬当時においても、被災者が、長時間労働を含む通常以上の業務に従事していたこと、研修への参加や授業の実施など、業務を継続的に遂行できていたことに着目しました。精神障害の認定基準では、発病の有無や時期は、診断名だけでなく、実際の生活機能・業務遂行状況を踏まえて判断すべきとされています。審査会は、当該時点で被災者が業務遂行能力を著しく失っていたとは評価できないとしました。
2.医療的評価・症状の継続性
また、被災者には当時、精神科等の受診歴がなく、抑うつ気分や意欲低下といった症状が、一定期間継続して認められていたとまではいえないことも考慮されました。うつ病エピソード(F32)の診断には、症状の持続性や重症度が重要となるところ、審査会は、その診断基準を満たす状態が平成28年7月下旬に成立していたとは認められないと判断しています。
3.私生活における活動性
さらに、審査会は、被災者が当該時期において、交際相手と旅行に出かけるなど一定の対人関係や余暇活動を維持していたといった私生活上の行動にも着目しました。これらの事情は、精神障害の発病を一律に否定するものではないものの、少なくとも当該時点で重度の精神障害が顕在化していたとは評価しにくい事情として考慮されています。
4.自殺直前の心理状態の急変
一方で、審査会は、始末書提出直後の被災者の文面や言動に、それまでとは質的に異なる強い自責感・絶望感が表出している点を重視しました。「自己を過度に責める表現」、「将来に対する著しい悲観」、「追い詰められた心理状態をうかがわせる記載」が認められることから、精神状態が短期間のうちに急激に悪化したことが強く推認されると判断しました。
5.発病時期の認定
以上を総合し、審査会は、平成28年7月下旬の時点では精神障害を発病していたとはいえず、始末書提出を契機として心理状態が急激に悪化し、遅くとも自殺直前には、適応障害(ICD-10 F43.2)を発病していたと認定しました。
■審査会の判断②(恒常的長時間労働下での心理的負荷評価)
発病時期を自殺直前に置き直したことにより、恒常的長時間労働および始末書提出・叱責は、いずれも「発病前おおむね6か月以内の業務上の出来事」として、認定基準に基づく評価対象に入りました。
1.始末書提出・叱責という出来事の位置づけ
まず、始末書の提出と叱責について、審査会は次のように位置づけました。始末書の提出を求められた出来事については、人格否定や明確な退職強要とまでは認められないものの、誓約事項を守らなかったことを理由に、相応に厳しい叱責を受けたと推認できることから、認定基準別表1における「上司とのトラブルがあった」に該当すると整理しています。そして、その心理的負荷の強度については、「始末書提出後も当日午後は通常どおり授業を行っていたこと」、「表面的には業務遂行が継続していたこと」などを踏まえ、単独では「強」には至らないが、「中」に該当する出来事と評価しました。
2.恒常的長時間労働の存在
一方で、被災者については、月100時間を超える時間外労働が認められ、認定基準上の 「恒常的長時間労働」 に該当する状況が存在していました。認定基準は、恒常的長時間労働について、それ自体が精神障害の原因となり得るだけでなく、「心身の疲労を蓄積させ」、「その後に生じる出来事に対するストレス対応能力を低下させる要因」であると位置づけ、恒常的長時間労働がある場合に生じた出来事については、通常よりも強い心理的負荷を与えるものとして評価すべきとされています。審査会は、「恒常的長時間労働が継続していたこと」、「その状況下で、始末書提出・叱責という出来事が生じたこと」そして、「その直後に精神障害を発病していること」を踏まえ、心理的負荷の総合評価は「強」ということができると結論づけました。
■審査会の結論
以上の検討を踏まえ、審査会は、被災者に発病した適応障害およびその後の死亡は、業務上の心理的負荷に起因するものと認められるとして、監督署長の不支給処分を取り消しました。
■まとめ
本件裁決が示しているのは、精神障害の労災判断においては、心理的負荷の強さ以前に、「発病時期の認定」が決定的に重要であるという点です。同じ出来事であっても、発病時期の置き方次第で、評価対象に入るか否かが変わり、結論も大きく異なります。精神障害は目に見えにくいからこそ、業務の経過と発病のタイミングを丁寧に整理することの重要性を、本件裁決は改めて示しているといえるでしょう。
執筆者 岩澤
岩澤 健 特定社会保険労務士
第1事業部 グループリーダー
社労士とは全く関係のない職を転々としておりましたが、最後に務めた会社が大野事務所の顧問先というご縁で入所することになりました。それからは、何もわからないまま全力で目の前の仕事に励んできました。
入所してから十数年、現在では「無理せず、楽しく、元気よく」をモットーに日々の業務と向き合っています。
数年前から、子供と一緒に始めた空手にドはまりしており、50歳までに黒帯になるという野望があります。
押忍!!
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